「食べて、笑って、生きていく。」
生活をしていると、楽しい瞬間もあれば、苦しい瞬間もあると思います。そんな日々の中でも、よりよい「食」の体験があることで、きっと自然と前を向けるようになる。この思いから、「AJINOMOTO PARK」は一人ひとりの暮らしや食に向き合い、できることを探し続けています。
エッセイストの大平一枝さんは、これまで350軒余りの台所を取材し、13年にわたって「東京の台所」をテーマに連載しています。
大平さんが着目していることの一つが、台所を通じた「生きる力」。台所取材から感じた日々を少し明るくするコツについて、お話を伺いました。

インタビューした人
エッセイスト
大平一枝さん
1964年生まれ、長野県出身。編集プロダクションを経て、独立。市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆。「&w」(朝日新聞デジタルマガジン)の人気連載「東京の台所」は、5冊の書籍化。台所から浮かびあがる人生の機微に多くの読者が胸を打たれている。著書に『男と女の台所』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』(平凡社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)、『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』『ふたたび歩き出すとき 東京の台所』(毎日新聞出版)ほか
- 台所は「その人らしさ」があらわれる場所
- 「あるべき」姿からの解放
- 失敗は「ものさし」づくりのチャンス
- 「これが私のものさしです」と信じる勇気を育てる
- SNSの暴力には「30点」への想像力を
- 台所という「物語の連鎖」を、これからも
01
台所は「その人らしさ」があらわれる場所
大平さんが綴る『東京の台所』には、台所を通じて、人生模様が浮かび上がります。主役は台所ではなく、あくまでも台所の持ち主。大平さんが自宅へ伺い、冷蔵庫や食器棚の中に入っているものを会話の糸口にし、その方の暮らしを深掘りします。職業や年代もさまざまな訪問先は、今ではほとんどが、連載の読者からの自薦応募です。

これまで訪れたのは350軒余。一つとして同じものはなく、住む人の生活が色濃く映し出されます。そんな多様な台所に、なにか共通点はあるのでしょうか?
大平さん「台所って、取り繕えない場所なんです。どの方も取材前に片付けてくださるんですが、隠しきれない『らしさ』があちこちにあらわれる。例えば、しょうゆ。冷蔵庫を開けたときにうま口しょうゆがあれば九州、うす口しょうゆなら関西かもしれない、と出身地が見えてきます。種類の違う塩が置かれていれば食への関心が高いのだろう、とか。朝晩に選ぶ飲み物をたずねると、その人のリラックス方法までわかってくる。台所にあるものは、その人らしさを静かに語りかけてくれるんです」

映し出されるのは、「らしさ」だけではありません。
大平さん「台所はだれかの存在が息づく『交差点』にもなっているんです。友達と旅先で買った調味料、SNSで見かけた誰かのレシピ、今はいない大切な人から譲り受けたり、一緒に使っていたりした食器……。記憶や思い出を呼び起こすようなスイッチがたくさんある場所だと思います」
02
「あるべき」姿からの解放
訪ねた人の記憶や思い出を温かく見つめ、誰かの救いとなるような文章を書こうと努めてきた大平さん。ただ、ご自身の台所との関わりを伺ってみると、かつては自分も「がんじがらめ」になり、つらいときがあったと打ち明けてくれました。
大平さん「子どもたちが小さい頃は『やらなきゃいけない』という義務感から台所に立つことが多くて。料理を嫌々していたときもありました。それに、かつての私にとっては、色々な思い込みや自分のルール……理想像みたいなものにしばられていた場所でしたね」

大平さんがフリーライターとして独立した頃は、「ていねいな暮らし」が数多くの雑誌やウェブメディアで取り上げられた時代と重なります。取材で見聞きすることが、そのまま自分にとっての理想像にもつながりやすかったそう。
大平さん「食材はオーガニックなものを、だしはいちから引いて、鋳物の鍋に鉄のフライパン……なんて挙げだしたらキリがないくらい。仕事と育児の両立で精一杯の日々で、『ていねい』を実践できていない自分に、常に後ろめたさを感じていました」

しかし、ときが経ち、お子さんも大きくなるにつれ、台所との関わり方は変化します。
大平さん「今は、自分と向き合う貴重な場になっています。調理中は手がふさがるので、レシピを確認する以外はスマホを見ることがないんです。おのずと外からの情報を遮断でき、自分の内面との対話の時間が生まれます。それに香りや音など五感すべてが刺激されることで、『今、この瞬間』に集中できるんです」
「今は台所に立つことが日々の楽しみになっています」と大平さん。ただ、この心地良さを見つけるまでに、実はたくさんの失敗をしてきたと言います。
03
失敗は「ものさし」づくりのチャンス
今でも大平さんが忘れられないというのが、すでに独立した娘さんが7歳のころに起きた「玄米事件」です。
大平さん「私自身も『ていねい』な暮らしに触発されていた時期で、家族の健康のためを思って、毎日玄米ご飯を炊いていたんです。そんなある日、お茶碗を前にした娘がポロッと一粒涙をこぼして。『この家ではもう白いご飯は食べられないんですか』って聞いてきたんです」
娘さんの涙には、大平さんが気づかなかった本当の気持ちが映し出されていました。確かに玄米は栄養価が高く、健康にも効果的かもしれません。けれど、「世間的によいとされるものが、家族にとってもよいものとは限らない」と我に返ったといいます。
大平さん「『正解は自分の家族にあるんだ』と気がつきました。家族に嫌な思いをさせてしまうような失敗もたくさんして、やっと身を持って理解できたんです。正解って、理屈じゃないんですよね」
そう話す大平さんからは、失敗のつらさや後悔を認めつつ、その経験から学ぶことを大切にする姿勢が感じられます。
大平さん「失敗は尊い、と思っていて。私たちにたくさんの発見を与えてくれるんです。そのときは居心地が悪いし、周りを巻き込んでしまうこともあるんですけど……。気づきを得ることで、自分らしい暮らしも少しずつ形作られていく。失敗は豊かさの素、なのかもしれませんね」

こうした経験の積み重ねで得たことが、やがて大平さんにとって「暮らしの羅針盤」になっていきます。
大平さん「試行錯誤のうちに自分なりの判断基準、いわば『ものさし』ができていくんです。私の場合は『家族が笑顔でいられるかどうか』という視点で日々の選択をするようになりました」
04
「これが私のものさしです」と信じる勇気を育てる
自分だけの「ものさし」を見つけられたら、それは大きな一歩。この「ものさし」を暮らしの中で活かしていくには、どうするとよいのでしょうか。
大平さん「『ものさし』を信じる勇気が大事だと思っています。世の中には様々な価値観があって、周りや世間からの『こうあるべき』という声に振り回されることもあるかもしれません。けれど、『これが私のものさし』と、声高にせずとも大切にできるといいですよね」
大平さん自身がそう思えたきっかけが、2歳の子どもを育てる30代夫婦の取材だったそうです。育休が明け、「やるべきこと」に押し潰されそうになり、イライラも日々募っていく……そこで夫婦は、家族が心穏やかに過ごすために「削れる家事」を見直します。
大平さん「この家族にとって、それは『平日の手料理』だったんです。週5日の宅食サービスを頼むことにしてから『気持ちが楽になり、家族の笑顔が増えて、やっと毎日がスムーズに回っていくようになった』とおっしゃっていたのが印象的でした。子どもとの時間が増え、他の家事も回るようになり、夫婦喧嘩も減ったんだとか!ご家族の笑顔にそれぞれの『ものさし』を信じる大切さを教えてもらいました」

大平さんは、長年の台所取材を通じて、「ものさし」の持ち方に変化を感じるシーンがあったそうです。たとえば、「冷凍食品への考え方」もその一つ。
大平さん「以前は、冷凍食品=手抜きというネガティブなイメージがあったからか、取材中にあまり話題にしたがらない人が多くて。今では『私を助けてくれる味方』として活用法を色々教えてくださる方が増えました。共働き家庭や子育て世代、仕事優先の単身世帯など、それぞれで上手に冷凍食品を取り入れてますね。
心に余裕が生まれて快適になれるのなら、こういった既製品や宅配・宅食サービスの手をうまく借りるのも有効だなと思います」
05
SNSの暴力には「30点」への想像力を
とはいっても、今の時代、自分らしい選択が難しくなっているとも大平さんは感じているそうです。特にSNSの存在により、他者の暮らしが可視化されやすくなりました。無意識のうちに他者と自分を比較してしまうことが、また新たな苦しみの種に……。
大平さん「2人の小さなお子さんを持つお母さんに取材したことがあるんです。冷蔵庫の中を拝見すると、下ごしらえした野菜が保存容器に入れられて、いくつも並べられている。『きちんと料理をされているんですね』とお伝えしたら、『ほかのお母さんがたはもっとできていますから』と、自分を責めるような言葉が返ってきました」
家の中で子どもとの生活に追われる日々。この女性にとって、外の世界とのつながりはSNSでした。子育てもしながら、品数もあり、彩り豊かな料理を作る他の人の投稿を見て、「私なんて」と比べ、自分を過小評価してしまっていたのです。

大平さん「SNSに投稿される場面は特別な瞬間なんですよね。栄養バランスのとれた料理が並んでいたり、おしゃれなテーブルセッティングを見たりすると『あの人はいつも100点』と思い込む。すると、できていない自分に罪悪感を抱いてしまう。これはある意味、暴力かもしれません。
本当は誰にだって『30点の日』があるはずです。完璧に見える投稿の裏側に、表側には出てこない日常があることを心に留めておく。そうすれば知らず知らずのうちに、私たちを追い込むSNSによる暴力からも、少し距離を置けるかもしれません」
そしてこうも続けます。
大平さん「料理に限らず、毎日のすべてを完璧にこなすことなんて、きっと誰にでも難しい。『ふたたび歩き出すとき 東京の台所』にも書いたのですが、自分や一緒に暮らす人のお腹を満たせているだけでも、素晴らしいことだと私は思います」
完璧を求めすぎず、肩の力を抜くためのコツとして教えてくれたのは、自分なりの「免罪符」の存在です。

大平さん「『これさえできていれば大丈夫』と自分を許せると、不思議と心が楽になるんです。私の免罪符は、梅干しづくり。5kgの梅干しづくりキットを買って、仕込む。たった数時間の作業で、梅干しを食べ切るまでの半年間、私の中の自己肯定感が満たされ続けるんです。そう思うと、お得じゃないですか?(笑)。それに『これ、お母さんの手作りよ』って、子どもにも伝えられて、一石二鳥でした!」
と、ニッコリ笑う大平さん。ちなみに『東京の台所』の取材先では、塩麹を手作りしている人が多いそう。「簡単にできて、長期保存がきく発酵調味料は、心強い免罪符になりやすいのかもしれないですね」と教えてくれました。
06
台所という「物語の連鎖」を、これからも
ウェブ連載『東京の台所』では、基本的に同じ人は登場しません。しかし、著書が出るタイミングで再訪することになったり、取材後にメールで近況を知らせてくれたりする方がいるのだとか。
そうして大平さんのもとには「自分のお店を開きました」「例の彼女と復縁しました」「引っ越しました」など、新しい一歩を踏み出した報告も届きます。
大平さん「私自身の経験と数々の台所を訪ねて感じたことから言えるのは、暮らしも価値観も流れるように変わっていくということ。今日と明日は違うし、未来の自分はまた違う台所との関わり方をしているかもしれません。だからこそ、その時々で、自分の心が少しでも楽になるような『ものさし』を築けるといいですよね」

ところで、大平さんが「キッチン」ではなく「台所」という言葉を選んだのにはどんな思いがあるのでしょうか。
大平さん「『台所』という言葉があらわす精神性を大切にしていきたいからです」
たとえば、台所はかつて「お勝手」とも呼ばれていました。そこには「自分の都合がよいこと」という意味も含まれます。
大平さん「台所には『料理を作る場所』以上の意味があると思っています。そして、そこには受け継がれる暮らしの知恵や物語も詰まっている。そんな静かに息づく物語を、丁寧に紡いでいきたいんです。その物語が誰かの物語につながり、また次の誰かの物語を豊かにしていく。そんな連鎖を生み出していきたいですね」
